卒業遍路2018感想 by 先達
卒業遍路を行った数日後、「卒業遍路は林間学校のようで楽しそうですね。いい経験になりますね。」というようなことを、島内の大人に言われた。その人は決して悪気があったわけでも、皮肉なわけでもなく、好意的に発言したのだろう。しかし、遍路と林間学校は違う、という想いが強くある。その理由を、卒業遍路当日のことを思い出しながら考えてみた。
お遍路最中に、道すがら出会う地元(伊喜末・小江)の人、おそらく墓地に向かうであろう人や畑仕事をする人から声をかけられた。「あんたらどこから来たんな?」と聞かれ「島の子供たちですよ」と答える。すると皆感心したような表情をして、嬉しそうにする。お遍路ではよくあることなれど、山歩きやハイキングでは、質問はしても感心はしない。「気をつけて」あるいは「ゴミを捨てないで」くらいの感想だろう。この違いを分析すると、違和感の答えに辿り着く。
まず、自分たちの地元にいらっしゃる仏様を尊敬し、大切に想ってくれるお遍路さんは有り難い、と思う人が多い。歴史・文化といった価値観が共有されている喜びがそこにはあるのではないか。
そして、仏様に手を合わせ参拝するような人に、それほど悪い人はいないだろう、という安心感があるのではないか。
実際お遍路さんにはいろんな人が居るが、今までの実績として、モノを壊したり、盗んだり、暴力を振るったり、という恐れは無い、と思っている人が大半だろう。もし、自分の住んでいる集落の人気の無い路地道に見知らぬ人が居ると、不信感を抱いて警戒するのが普通であるが、遍路装束をまとっていると、「お遍路さんが迷い込んだのか」くらいにしか思わない。
最後に、山歩き・ハイキングの人は、自分の健康や癒やしのことばかりを考えているが、お遍路さんは、他人を思いやって自分以外の人のためにも手を合わしている存在だ、という尊敬の念があるのではないか。
これは、実際にお遍路をやった人にしかわからないことかもしれないが、お寺を巡って、手を合わせ、自分のお願いごとをご本尊に思い浮かべていると、家族の健康や祖父母の病気平癒など、身内の願いも一緒に祈っていることが多い。場合によっては、亡くなった人の供養のお遍路をしている人もいる。今回の卒業遍路は、自分にとってはまさにそれで、志半ばにして夭折した友人の供養の巡礼だった。
お遍路さんが札所で読経するお経の最後に、必ず「廻向文」というお経を読む。
「願わくば この功徳を持って 普く一切に及ぼし われらと衆生と皆共に 仏道を成ぜん」
意味は、今唱えたお経の功徳が、自分たちを含め、広く世の中に伝わっていきますように、となる。
要するに、お遍路さんは、歩いていない自分たちの代わりに、仏様に手を合わせ、その御陰をお裾分けしてくれている有り難い存在なのだ。忙しい現代人にとって、仕事に追われて時間がなくて、或いは、高齢で体力がなくて、家を離れられない事情があって等、お遍路をしたい人ができない理由はいくらでもある。金銭的な事情もあるだろう。そうした諸々を踏まえて、お遍路をしている人は特別で、だからこそ「有り難いなぁ」と思わせるものがある。
お遍路さんにお接待をする、というのも、代わりにお参りしてくれてありがとう、の謝意が込められている。見返りを求めないのも、他人のためではなく、我がごとだからだ。
実際、そんなお遍路事情を露も知らない卒業生たちも、卒業シーズン・新年度を迎えるにあたっていろいろ忙しい身の上で、他にやりたいこともあるだろうに、外に出て、不慣れな新しいチャレンジに身を投じて、知らず知らず、自分以外の家族や友人のことを想って手を合わせているのだろう。そう考えると、感心もするし、嬉しくも思えてくる。
とは言え、子供たちにはそれほど事細かくは解説しなかった。言葉で説明しても伝わらないこともあるし、持論の押しつけになってしまいかねない。その点に関しては、昨年からはじめた代参企画にその役割を託した。代参企画とは、島内の介護施設利用者に、自分たちの代わりに、奉納するモノを卒業生に作ってもらうアイデア。デイサービスのワークの延長で無理なくできるモノとして、折り紙や塗り絵、写経を頼んだところ、驚くほどたくさん集まった。お参りする度に、色鮮やかな折り紙や塗り絵を頼まれたら、嫌でも記憶に残るだろう。
加えて、札所札所のおせったいや関わる大人の表情などから、自分たちが好意的に受けとめられ、特別扱いされていたことはなんとなく肌で感じていただろう。ただ歩いていただけなのに、「えらいなー」「がんばっとるなー」と、家に帰っても言われているかもしれない。遍路以外で遍路みたいなことってあるのかな?その問いの答えを、彼らなりにこれから考えていってくれたら、と思う。
88まで行けば1に戻って無限にループするお遍路には、明確なゴールがない。お遍路し終わった後、こうなっているのが正解、というものもない。だからこそ面白い。答えが必ず用意されている学校教育の中にあって、答えが用意されていないものに出遭い、悩み苦しむのが中高生時代だとしたら、お遍路は悩みの種を一つ増やしてしまうかもしれない。しかし、生きていくために避けては通れない、自分なりの羅針盤を探す旅、自分磨き、が卒業遍路をはじめた動機だったことを思い返せば、狙いはまさにそこにある。「なぜ歩くのか?」は「なぜ生きるのか?」に近い。わからなければ歩けばいい。歩いた先に見えてくるものがある。歩く場所がある島の子は幸せ者だ。
先達 大林慈空
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